園長のこぼれ話

父の二十五回忌

■父、すなわち千里敬愛幼稚園の前園長が浄土に旅立ち24年になります。第11世住職として岸部の願成寺に入り婿したのは20代後半でした。
■大正11年、広島県西条で長男として誕生するも、お母さんが若くして亡くなり、再婚した義母が辛くあたるのに堪えかねたお父さんが、小学5年生の頃に岸部の別の寺院に小坊主として預けられたそうです。願成寺の跡継ぎは一人娘だけで、第二次世界大戦前に姫路から婿を迎え入れていたのが戦死されたため、父が後に入ったそうです。
■願成寺は江戸初期に建立されましたが、檀家さんも少なく、祖父も豊津の小学校で教鞭を執っていたそうです。岸部から豊津まで徒歩で。
■そんな貧乏寺のため、副業的に農繁期に子ども達を預かったのが好評で、寺の本堂で保育園を始めたのが敬愛幼稚園、保育園の始まりでした。
■記憶に残る父は馬車馬のように働いていました。家族が揃って夕食を食べるのは正月以外年に数回。戦後直後の当時の日本では当たり前だったようです。行楽地に連れて行ってもらったことはありませんが、父は講演会や一人使いの人形劇をあちこちの園で行なっていて、小学校の頃、私が休みのときは必ずと言って良いほど連れて行ってくれました。スバル360の軽自動車が家に来たのはかなり後で、多くはスクーターの後に人形劇の舞台等一式を乗せ、私は父の膝の間に挟まって前に乗っていました。どうも違反のようで、警官がいると、小さくなって隠れました。
■園児が増えると、それこそ檀家さんから借金をして隣接の畑を購入したり、本堂と庫裏(住居部)の間を繋ぐ渡り廊下と離れを壊して保育室を建てたのも覚えています。その後、吉志部神社の参道脇に岸部敬愛幼稚園の前身を開園するのも借金。父が40歳を過ぎた頃に舞い込んだ千里敬愛幼稚園の設立でも資金などなかったので再び借金。契約書の押印では手が震えたと言ってました。
■心筋梗塞で倒れ、当時は開胸手術で輸血が必要でした。その後は80歳を過ぎるまでは元気でしたが、寒いのが辛かったのか、冬は台湾に疎開することも屡々でした。
■体調を崩して入院数日後、家族も帰宅した深夜、静かに息を引き取ったと聞いています。
■法事で久し振りに親族に合いました。兄弟には孫がいます。甥が義兄そっくりな声だったり、顔も良く似てます。姉も亡くなっている母にそっくりになっています。私も父のDNAをどうやら引き継いでいるのでしょう。
■宗教的な意味合いよりも、普段は顔を合わせない人達と会い、25年の歳月を経ても故人を偲ぶ意義が法要にはあるのでしょう。

楽しいから好き!が合い言葉。子ども達も保護者も通いたくなる幼稚園を目指して

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