■子どもが主体的に活動【自ら考え、自ら行動できる子】
明治時代、日本に幼児教育が導入された頃から、「お遊戯」「お絵描き」と称されていたのは、それまでの寺子屋での「読み」「書き」「そろばん」と対比して興味深い相違点です。当時から漠然と、幼い子ども達の教育は従来の観点からのアプローチでは無理だとしたものでしょう。ただ、ピアジェによる認知発達の解明も未だ待たなければならない時代だったので、幼児の能力を過小評価していたとしても仕方ありません。
ところが、現在の幼児教育でも、この「お遊戯」「お絵描き」理論は脈々と受け継がれているのです。文科省の教育要領が6領域から5領域になり、「音楽リズム」「絵画制作」が「表現」と言い換えられても、現実には、指導者の指示通りに動かされる「ロボット」が「お遊戯」であるなら、「絵画製作」は指導者の「下請け作業」に終始しているのが現状です。まだまだ伝統的な「教えること」が教育だとの考えが根強く残っています。
一方、「子どもの主体性を尊重する」立場では、子ども達が好きなように動いたり、楽器を無秩序に鳴らしたり、自由に作ったり描くことを良しとします。
個々の活動だけではなく、活動そのものを子ども達自身が選ぶ、いわゆる「自由保育」と称される保育実践する園もあります。
午前中は「設定保育」、午後からは「自由保育」の二本立て保育は多くの園で見かけられます。
子どもの興味関心を重視する考え方はピアジェの認知発達理論にも書かれてあり、伝統的な教育から一歩進んだ教育のようにも見えます。
確かに「子どもの主体性を尊重する」視点は大変重要ですが、教育的効果という観点から私は疑問視します。
指導者1名が、複数の子ども達と関わる状況で、どれだけ一人一人の興味関心を的確に把握し、対応出来るかは大変難しく、結果、子ども達が勝手気儘に行動するだけに終わってしまう危険性すらあります。
長年私は、その両極端でない、中庸の道を模索してきました。
ところが、幼児教育のいろんな分野の実践を通じて、中庸ではなく、全く別の視点から幼児教育を捉えるべきだとの考えに達しました。何故なら、この両極端の考え方は互いに相容れないばかりか、お互いへの批判に対して、「そういう活動の時間もある」と攻撃の矛先をかわすために積極的に利用するばかりで、あたかも午前中は独裁国家の教育、午後は自由社会に放り出されるような矛盾にも指導者自身、気付こうとしないのです。
逆に自由保育を看板に掲げている園でも、行事の前になると一変したり、不必要までに子ども達を押さえ込む時間を一日の中に組み入れていることもあります。
子ども達の環境への適応性は、その生命力が証明するように、とても高いために、このような矛盾が保育の中に存在していても、見事に割り切って生活しています。
しかし、両親の価値観が極端に違う家庭環境では子どもの成長に歪みが生じるように、このような教育環境では、子ども達の精神性の成長に、効果の面だけではなく、登園を嫌がったり、充分に馴染めなかったりの悪影響さえ生まれることも屡々です。
故に、中庸ではなく、第三の方向性を意識し始めました。
「子どもの主体性を重視した保育活動(設定保育)」の追究がそれです。
教育とは「主義主張ではなく、実践による子ども達の成長という目標に向かっての多角的、かつ継続的な考察」との見解に達し、その目標を「自ら考え、自ら行動できる子の育成」に置きました。
そのために、まず、子ども達の反応の的確な把握、すなわち、「子どもから学ぶ」姿勢を私達が堅持することだと考えるようになりました。
■耐震性のない教育
最近マスコミで賞賛されているいくつかの教育法では、提唱者は異口同音に、「子どもにやる気が育つ」と言います。特に現場で大きな誤解があったために学力の低下を招いたとする「ゆとり教育」の見直しも、親に対して、これらの教育法は魅力的に響きます。
しかし、限られた内容の到達を目標とする教育では、単に積木を高く積み上げることだけに専念し、ピアジェの言う「構造化」、すなわち、強固な骨組みなしの経験にすぎず、小さな地震(将来の失敗)などでも簡単に崩れてします。
■好き勝手な行動は主体的ではない
また、子どもの主体性の重視は、「子どもが自らの意志で積極的に活動に参加」することであって、子どもが好き勝手に行動することとは違います。
すなわち、行動に価値があるのではなく、その内面の動き、心理に重きをおくべきなのです。
行動に価値を見出していては、先の「やらせ教育」と全く同じ理屈になります。
「子どもがしたがっているから」とか「子どもが楽しんでいるから」は子どもの心理に即した考え方を重視する考え方に意義を挟むつもりは全くありません。
しかし、これは必要条件であって、十分条件とは言えません。
幼児の主体性そのものと、一時的、かつ個人的な感情(気分)の違いを見極めななければ、教育そのものが誤った方向に進む危険性をはらみます。
少なくとも、「活動の選択」の原点を、このような未成熟な、あるいは個人的な感情に置くことに疑問を感じる方は多いでしょう。一時的、かつ個人的な感情を無視しても良いとは言いません。そのようなな感情は、別個に対応すれば良いのであって、それを保育活動選択の基準にすべきでないと考えるのです。
「子どもが、より意欲的にしたがり、より楽しめる」ためにどんな教育的活動を準備するかを、一人一人の子どもから的確に判断しながら、十分条件に広げる必要があります。
■内面の充実こそ教育の目標
専門教育に至るまでの教育で最も大切なのは、その時々の行動の成果ではなく、内面の充実であると考えます。
「構造化」そのものも、子ども本人の内面的な作用が重要であって、他者からの働きかけも、この内面的な作用に留まるべきで、行動に直接働きかけていては、教育ではなく、訓練になります。結果、内面的な作用に悪影響を及ぼします。無気力感、挫折感にもつながります。
常に子ども達が、意欲的に、充実感や達成感を持ち続けて活動できるかが、教育に携わる我々が心するべき点です。
ところが、言うは易く、行なうは難しで、普段から子どもの内面の働きを見ずに、行動だけを見ていては、何年教育の現場にいても、子ども達の内面の働きは見えないものです。「行事のための保育ではいけない」との示唆も、単に「行動」としての「行事」にだけに目を向けているから本質的な改善がなされないのです。
■表現について■
幼稚園教育要領の「表現」の総論として、「感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して,豊かな感性や表現する力を養い,創造性を豊かにする」とあります。
「感じたことや考えたこと」の主語は「子ども達」であることは言うに及びません。すなわち、「子ども達が自分で感じたことや考えたこと」であるべきで、指導者の意図通りに表現していては、それは「表現」ではなく、「模倣」であり、換言すれば、子ども達は「ロボット化」「下請け作業人」になってしまっています。
この観点から、表現活動を見るだけでも、表現とは言い難い活動が教育現場にはびこっています。
「豊かな感性を養う」との表記には疑問を呈します。
「感性」とは一体何なのでしょうか。滝沢武久氏は「感性とは感動する心」と解説されました。では、大人と子どもでは、一体どちらが「感動する心」が豊かでしょうか?この質問に対して、「子ども」と即答できるなら、常に子どもの内面、心理に寄り添った保育をされていると言えるでしょう。
「豊かな感性を養う」のではなく、「豊かな感性を潤滑油として活用できる」表現活動でなくてはなりません。
「自分なり」という表現も曖昧です。「指導者の意図ではなく」と読むのなら正しいでしょうが、子ども達は一体どれだけ多くの、また豊かな「自分なり」を獲得しているのでしょうか?一歩解釈を間違うと、ここでも「子どもの勝手」になりかねません。
■表現と伝達
表現と伝達には共通点と相違点があります。「言語」で説明しましょう。
知らない外国語では「お腹が空いた」と相手に伝えることができない場合、お腹を押さえたとしても、相手は「お腹が痛い」と解釈するかもしれません。お腹を押さえることを「身振り言語」と言いますが、これすら国による社会的通念があり、日本人の身振り言語が必ずしも外国で通じるとは限りません。
手の甲を上にして、指を動かすと、日本では「こっちにおいで」になりますが、「あっちに行け」と相手を追っ払う意味に取られる国もあります。「こっちにおいで」は手のひらを上にしなければなりません。
電話をかける仕草(身振り言語)も、現在では日本でも親指と小指以外を曲げて耳と口に近づけます。以前は受話器を握る仕草でした。
その国の言葉を知っていたら言葉によって相手に知らせられます。この場合の「知っている」とは、文法であり、語彙です。文法と語彙によって自分の意志を伝達するためには正確さが要求されます。
ところが、表現の場合、必ずしも正確さは必要ありません。先の指導要領の「自分なりに」と表記しているのも、このあたりでしょう。ただし、伝達の場合は「自分なりに」では用を足しません。
芸術を「独りよがりの道楽」と揶揄される場合があります。表現されたものに接した人達が何の感銘も受けない芸術的行為は確かにあります。時を経て受け継がれている芸術作品に高い評価が与えられるのは、多くの人達が感銘を受けるからです。
表現と伝達では「伝え合う」「共感する」などの共通点は確かにありますが、指導要領の「言語領域」の総論で「表現」という言葉が用いられているため、混乱が生じます。ここでは「表出」あるいは「伝達」とすべきでしょう。あるいはコミュニケーション能力です。「話す」「聞く」能力がコミュニケーションで重要であることは疑問の余地がありません。
ただし、「幼児の表現活動」は、芸術家にインスピレーションを与えることはあっても、芸術の域に達してはいません。よって、表現と伝達の境は殆どなく、教育のねらいにおいても、「コミュニケーション能力を育てる」としても、あながち間違いではありません。しかし、繰り返しますが、「伝達」では「正確さ」が要求され、「表現」では「正確さ」ではなく、相手に感動を与えるものでなくてはなりません。
■絵手紙
芸術の場合、第三者評価によって、自己表出意欲、創作意欲が必ずしも生まれるものではなく、芸術家の本能的なものだと言えます。
芸術家だけではなく、また、幼児のみならず、人間には自分の思いを伝えたい気持ちは誰にも備わっている本能的なものです。引きこもりの人にはこれがなく(あるいは希薄になり)、内部のエネルギーが表出しない状態だと言えるでしょう(その要因には言及しません)。
ただし、そこまで極端でなくても、引っ込み思案や消極的なため、充分に自分の思いを第三者に伝えられない幼児がいます。
原因はいろいろあるでしょうが、そのひとつは、自分を表出したときに、どう相手が受け止めるか、すなわち受け止め側の姿勢によるケースもあります。自己表現したときに、しっかりと受け入れられるかどうかは、「コミュニケーション能力」を育てる上での第一歩です。
描画においても同様で、「描きたい」「絵で伝えたい」との気持ちは、それを受け止める人がいなければなりません。自由画帳に勝手に絵を描いていては、受け手はいなく、描くのが好きな子はいくらでも描いても、描かない子には決して魅力的な活動ではありません。
西光寺亨先生に直接ご指導をいただいてすぐに「絵手紙」を提案して下さったのも、指導者に子ども達からのメッセージ(絵)を受け止める姿勢が生まれない限り、単なる技術指導で終わってしまうとの先生の指導者としての姿勢が根底にあったからでしょう。
ただし、毎週〜10日に1度の実践は現場に負担にならないかと躊躇したのも確かです。それでも、子どもにとっては描画と絵手紙の区別はないはずだし、しっかりと子ども達と担任との間に、信頼感で培われた気持ちのやりとりがなければ、如何なる保育活動も成り立たないとの信念から、2年後から絵手紙活動を導入しました。
それから、20数年、子ども達と担任との心のやりとりが確立されたなら、絵手紙の回数を減らし、その分、描画活動を入れる方が良いとの結論に達しました。また絵手紙のテーマを「今、幼稚園で楽しいこと」とか、「週末、家族と何をしたか」など日記風なテーマだけではなく、子ども達の描く力を事前に見るために、特定の対象物、例えば「ロケット」などに絞り込むのも描画活動のテーマを考える際に有効だと考えるようになり、現在に至っています。
■経験値
子どもがしたいことだけをさせておく教育や、逆に子どもの心理を無視して成果だけを追究する教育に対しての批判はすでに述べました。
また、教育で大切なのは、子ども達と指導者の心のやりとりが大切だとも書きました。しかし、これだけでは充分な教育効果は得られません。子どもと指導者との心のやりとりは「必要条件」であっても、「十分条件」ではありません。
子どもの気持ちを無視したやらせ教育では、たとえ見かけだけであっても、一定の成果が見えるため、保護者も指導者も満足する傾向があります。
また幼児の場合、「自然成長」も大きく、特別な教育を施さなくても、3歳児と5歳児との違いは、2年の年齢差以上のものがあります。そのため、放任主義的な教育でも、その教育効果として「子どもが成長した」と評価してしまうのです。
では「十分条件」の教育とはどんなものでしょうか?
一言で言えば、「さまざまな経験を通して子どもの認知構造を強化する」ことです。そのために大切なのは、
1)子どもができること、できないことを私達が知る。
2)子どもができる範囲で能力を発揮できる活動、
あるいは新たに挑戦できる活動を準備する。
3)それらの活動の順次性を重視して経験値を高め
る。
の3点です。
1)のできること、できないことは、子ども達個々の能力と共に、クラス全体の能力も知る必要があります。個人な対応で可能な範囲の差違であったとしても、できない子が多すぎたり、差違が大きすぎる場合は、活動そのものを抜本的に見直す必要があります。
個人対応は可能な限り少ない方がいいです。指導者が手を出すと、どうしても子どもは依存してしまいます。自分でやろうとする意欲付けに繋がりません。
そのためには他の子どもの力を借ります。子ども同士が教え合ったり、一緒に活動することで学び合えます。これはその活動の習得だけに留まらず、子ども達の社会性の育成にも大いに関与するので、積極的に取り入れましょう。
後でまた述べますが、描画でも、2〜3人での共同画なら年中の後半から可能で、そうすることで、材料用具などの学び合いも可能です。
2)では、ひとつの活動の中に、子ども自身が「これなら出来る」と思える要素と、「ちょっと難しそうだな」と思う要素を組み込むことで、子どもの取り組む姿勢が変わります。
3)は前回の経験を踏まえて、次の活動を組み入れることで、経験の順次性を重視しながら経験値そのものを高めます。
多くの幼稚園の保育内容を手直しする段階で、ふたつの傾向があることが分かりました。
1)前年度の活動をそのまま踏襲する。
2)前年度の活動に問題があると、そっくり入れ替
えてしまう。
圧倒的に多いのは(1)です。たとえ100%完成度の高い保育内容だったとしても、子ども達は毎年同じではないはずです。同じ活動をしても、例年ほど反応が良くなかったり、逆に簡単に目標を達成することもあるはずです。ましてや3年間の長丁場だと、微調整は必ず必要なはずです。そして、一部の微調整は他の分野の活動にも影響が出ても不思議ではありません。
このような園では(1)の洞察が不充分だと言わざる得ません。
(2)は何年か工夫を重ねて実践しても問題点が解決されない場合、英断として賞賛されるべきなのですが、十分に活動内容を検討しないまま翌年そっくり変えていてしまっては保育内容の充実につながりません。(1)よりはまだ積極的だと評価できるものの、子どもの立場からの洞察かどうかが重要です。
■描画活動の経験値
【色、形、材料用具から見て】
(1)色
年少児に何色かの絵の具を出すと、塗りつぶしてしまうから、形がしっかり描けるようになるまでは単色の絵の具で、いろんなテーマで描く方が良いと、以前は考えていました。
実際、人物や動物の顔の目鼻を描いても、指導者がちょっと目を離すと、その上から塗りつぶす子も多くいました。
今では笑い話ですが、ある程度形が描けたら、「はい、そこまで」と子どもから画用紙を取り上げるタイミングが年少児の描画指導では難しい、と真剣に話し合ったこともあります。
ところが、子どもは「何故塗りつぶしてしまうのか」と考えたとき、ひとつの結論に達しました。
子どもは決して塗りつぶしたいのではなく、「塗りたい」のだと。でも、線を描いた絵の具と同じ色の絵の具しかない。もしかしたら、同じ色でも、塗っている間に違う色になるかもしれない、と思っているかもしれないのです。
実際、当時は、塗りつぶしてしまう子のために、たとえば、その上から目鼻が描けるように別の色を準備するのが指導上の留意点だと考えていたし、そうして新しい色を出してやるとしっかりと描ける子が多かったです。
それだったら、最初から2色、3色の絵の具を用意してやったらどうでしょうか?
本来、単色で何かを描かせようとしていたのは、輪郭線なのです。すなわち、形を取らせることが「描画」の第一歩だとされていたようです。
幼児の絵の発達を見る際、なぐり書きから始まり、丸が書けるようになってから目などのパーツが書け、次に顔から手足が出る頭足人間を書くようになるとされています。
確かにこの順序には間違いはありませんが、観察視点が「線」のみに限定されているのも事実です。
しかし、子ども達は線を描くことから、形を整えるのでしょうか?
年少児に与える絵の具は1色だけと限定していた頃、本当にそれで良いかとの疑問から、10月頃に次のような実践を試みました。残念ながら当時の画像は削除してしまっています。
①テーマ:パンダ
▶白と黒の絵の具
▶白を使うので画用紙は緑
結果、それまで形にならなかった子もパンダらしい絵が描けるようになり、単色絵の具よりも多色絵の具の方が子ども達には描き易いのではと考え始めました。
それ以降、いろんなテーマで実践しました。でも、子ども達には申し訳ないほど、多くの失敗も犯しました。子どもはそれなりに楽しんで描いてはくれたものの、複数の色を与えるだけでは形にならないことも屡々でした。
でも、失敗から多くのことを学ばせてもらいました。
また、暫くは良い実践だと考えていたテーマの中にも、それ以降の実践と比較すると問題点も浮かび、今ではリスト外にしているものもあります。
※パンダも現在では実践から外しています。下の②③と同じ理由からです。
失敗例から紹介します。
②テーマ:おにぎり
▶白と黒の絵の具
▶白が引き立つ色の画用紙
③テーマ:オムライス
▶黄色と赤系の絵の具
▶黄色が引き立つ色の画用紙
この二つのテーマでは、重ね塗りが必要です。白でおにぎりを描いた後、海苔の黒を上から塗ります。オムライスも同様です。
◆問題点1:段階的に絵の具を出していたのでは単色
での活動と大差ない 。
◆問題点2:テーマは食べ物で親しみやすいが、色調
が地味。子どもにとって魅力的か?
おにぎりの地味さを補うために「弁当」というテーマにしたこともあります。黄色で玉子焼き、赤でプチトマトなど、色からの発想は子ども達にも容易にできました。しかし、個々の食べ物を羅列するだけで、確かに、いろんな色を使い分けるという経験はできるのですが、作品としてまとめるのは不可能でした
④テーマ:ぶどう
▶紫系の絵の具2種類
▶白い画用紙
ぶどうは丸で表現できるので描き易いと思って取り上げました。
◆問題点1:丸をバラバラに描くだけで、房としての
まとまりは出ない。
結果、何を描いているか分からない。
◆問題点2:紫系の濃淡の絵の具の使い分けに必然性
がない。
⑤テーマ:たこ
▶赤系と黒の絵の具
▶水をイメージして水色
これも、丸で身体、線で足が描けるのではと取り上げました。
◆問題点1:形が概念的、画一的
◆問題点2:赤と水色のコントラストが難しい。いろ
んな赤で描いたし、白い画用紙も使った
り、黒の代わりに白を合わせたこともあ
るが、色調に問題あり。
その他、山とある失敗作から共通点が見えてきました。
パンダの成功例で気付かなかったこと。
私達自身が、2色の絵の具を使いながらも、やはり形を描かせようとしていた点です。
■テーマはあくまで借り物
春、苺狩りに行ったから苺を描くのではありません。単色の絵の具を経験した後、2色の絵の具で子ども達が伸びやかに描ける対象物は何なのかを考えてテーマを決めます。すなわちテーマはあくまで「借り物」で良いのです。
※イチゴも①②③の理由で活動しなくなりました。
「経験画」「印象画」「想像画」「観察画」「物語画」などとジャンル別で子ども達の描画活動を分類する考えが以前からあることは承知しています。しかし、これらはあくまで指導者サイドからの分類であって、先に述べた表現方法(美術なら、色、形、材料)の経験値からの洞察が殆どなされていません。だから指導者も、次のテーマを考える手立てが殆どなくなってしまいます。前回は経験画だったから、今回は想像画とテーマを探しても、本当に子ども達が描きやすいテーマを考えるのは至難の業です。だから、毎年、その時期が来たら同じテーマでの描画活動で無難に終わってしまいます。
経験値の縦軸を基本に考えつつ、子ども達の生活に目をやれば、テーマは無尽蔵に見つかるはずです。何故なら、「絵が子ども達からのメッセージ」であると考えるなら、子ども達の興味対象からテーマを導くのは決して難しいものではないはずです。
実はこの考え方は他の表現活動から学びました。
ひとつはクリエイティブ・ムーブメントです。
クリエイティブ・ムーブメントとは、幼い子ども達にモダンバレエを教える際に、身体の使い方を知らせようとしても、大人の方法では全く理解できないために、その活動を通して、子ども達が自然に身体の使い方に気付けるように、アメリカで開発されたプログラムです。
幼稚園でモダンバレエなど教える必要はないと、私も当初は考えました。しかし、幼稚園でも身体表現活動の表記はささやかながらあります。小鳥になったり、大男になって動く活動を取り入れておられる園も決して少なくないはずです。
ところが、従来の身体表現をいくら経験していても、自己表現にはなかなか結びつかないのが現状でした。すなわち、経験値の縦軸がないまま、先の「経験画」などのような大人サイドの分類だけで身体表現を取り入れていたのです。
もうひとつはサウンド・プレイという楽器遊びでした。
幼児の音楽は、自己表現の場ではなく、「模倣」に留まっているのは、演奏という形態から、どうしても仕方のないことです。しかし本当に再現だけが音楽なのだろうか、音による自己表現は不可能なのだろうかと悩んでいた頃に出会ったのが、ドイツの作曲家、カール・オルフが提案していたサウンド・プレイという活動でした。
楽器を自由に鳴らす活動は、演奏だと子ども達に練習を強いるという見地から一時期日本でもはやったようですが、単なる騒音にすぎず、衰退しました。
サウンド・プレイでは音楽的な、とりわけ「演奏の三要素」という経験値の縦軸に基づいて活動が作られていて、自己表現も保証される活動です。
※演奏の三要素:強弱、速度、音色
※音楽(作曲)の三要素:
メロディー、リズム、ハーモニー
■導入不要!
このふたつの活動の共通の特徴は他にもあります。
導入が殆ど不要だということです。
クリエイティブ・ムーブメントでは最初に短い投げかけだけで始めます。例えば「足の裏を怪我したら普通に歩けないよね。足の裏を使わないで先生のところまで来られるかな?」で、いろいろな表現が出て来ます。
サウンド・プレイでは、遊び方のルール程度の投げかけです。低年齢向けの活動ではそれすら必要がありません。
描画活動だけではなく、幼児教育では導入が必ず必要だとの信仰のようなものが根強くあります。「導入は良かったけれど、活動そのものは…」などの評価を聞くと、保育が一体誰のためのものなのかさえも分からなくなってしまいます。
導入は、これから子ども達が円滑に活動できるようにさえすれば良いのです。ところが保育者は往々にして心配症で、伝える必要のないことも延々と話し、結果、子どもの意欲そのものを削いでしまうケースもよくあります。また指導者が意図する「表現」へと誘導してしまいます。
■誘導不要!
そうです。導入と言いながら、それが指導者の意図への誘導に陥るケースもよくあります。こうなれば、子ども達の自己表現はなくなり、単なる指導者の下請け作業になってしまいます。
誘導性が強い導入では子ども達の絵が画一的になります。これはクラス全体の絵を床に並べて見ると歴然とします。その中から何枚か異なる作品を選べたとしても、クラスの指導となると問題です。
導入が長くなると、その分、誘導性が強くなると考えるのが妥当でしょう。
■長い導入への批判
別の観点から、長い導入に対しての批判を述べましょう。これらの問題点は表現活動に留まらず、すべての保育活動に言えると考えます。
1)誰のための保育か?
保育活動は誰のためのものかは、言うに及ばず子ども達のためです。
なのに、限られた時間で指導者が一人芝居よろしく長々と導入していては、その時間が誰のためのものなのか分からなくなってしまいます。事実、指導者によれば、言葉巧みに子ども達の注意関心を引くのが指導力と勘違いする者もいます。別の場面でならまだしも、活動の導入でそれをしては、子ども達は単に受動的に話を聞くだけです。
いえ、長い導入をしていても、「子ども達と話し合った」とか「子どもの考えを引き出した」と釈明する人がいます。しかし、実体は一部の積極的な子ども達とのやりとりが中心であることは歪めないでしょう。指導者の言葉は子ども達にとって、とても影響力があると常に意識しないと、主体的に発言、行動する子はごく一部になってしまい、消極的な子ども達は常に置き去りにされてしまいます。
2)何のための導入か?
繰り返しますが「導入は良かったけれど…」の評価ほど、無意味なものはありません。何のために導入をすべきかを考えれば、導入以降の本活動で、一人一人の子ども達が、どれだけ主体的に取り組めるかのための「きっかけ」だけで導入の使命は充分に果たしているのです。過度な演出、「ウソ」が導入に蔓延っていても、それが保育だと思い込んでいる人は少なくありません。
3)年齢によっても導入は変わる。
サウンドプレイの導入でも、年齢によれば遊びのルールの投げかけすら必要がないと書きました。低年齢の子に言葉で説明しても理解できないケースもあるからです。だから言葉で説明しなくても活動できる内容でなくてはなりません。
4月の下旬、ある園の満三歳児が、大きな模造紙にスタンピングをする活動前に、子ども達を集めて担任の先生がタンポの使い方などを説明しようとしました。これも導入の一部です。年少のクラスなら、まあ理解できます。でも、子どもは10名ほどで、模造紙も2枚用意されていて、補助の先生もおられます。集めて説明しなくても、実際に活動しながら知らせることも充分可能です。そのようにアドバイスしました。
用具の使い方など、一度経験していたら、指導者が一方的に繰り返すのではなく、子ども達に尋ねるながら話を進めるのが原則だし、初めてのことでも「こうしたらどうなると思う?」と聞きながら進めると子ども達の理解度は高まります。
以上のポイントから、導入そのものを是非再検討して下さい。
■導入の難しさ
適切な導入は、確かに子ども達の豊かな表現を引き出します。クリエイティブ・ムーブメントが優れている点は、その難しい導入の言葉が、多すぎず、少なすぎず、とても適切なのです。
ところが先の「足の裏を怪我したら普通に歩けないよね。足の裏を使わないで先生のところまで来られるかな?」を間違って「先生のところまで歩いて来られるかな?」と言ってしまっては子どもの考えは固定されてしまいます。この活動では足の裏以外の身体のいろんな部位を使って「移動」する表現を引き出すのに「歩いて」と言ってしまったら、表現が殆ど固定されてしまいます。
描画と身体表現活動の最大の違いは、身体表現活動では、時間の経過と共に表現が深まる点です。描画でも確かに描いていくうちに表現が深まることも屡々あるものの、最初の一筆で全体が決まってしまうことも少なくありません。そのため、念入りな導入が必要だとの考えがあります。いえ、導入だけではなく、実際に経験しないと子ども達は絵が描けないとの極論すらあります。
たとえ、活動のプロセスは違っていても、先に述べた導入の2つのポイントを押さえるのは共通しています。
「想」という概念で、この難しさを解きほぐしましょう。
■的確な「想」を引き出す工夫
「想」という概念は西光寺亨先生に教えていただいたものです。一般的に使われる「イメージ」でも良いでしょうが、この言葉はあまりにも乱用されているために、かなり曖昧になっているので、私も「想」を使います。
「想」はもちろん子どもが抱くものです。それぞれの子ども達の「想」が狭すぎると、子ども達の作品が似たり寄ったりになってしまいます。先に述べた「誘導」も一例です。クラス全体の絵を並べて見ると歴然とします。
ところが、製作帳や、折り紙、あるいは指導者が何かの形を切り取って、それに子ども達が申し訳程度の作業で終わる活動では「想」すら見えてきません。実際、ある園で「蝶々の貼り方が個性的でしょ」と言われたときは唖然としました。
逆に「想」が広がりすぎると、なかなか描き出せない子がいたり、そのため隣の子の真似をしたり、たとえ描けても、何を描いているか分からないような作品になります。
「そんなこと、急に言われても分からない」と子どもは文句をつけません。必死に考えようとします。それを言葉でなら表現できても、絵で表現できるか考えて下さい。
テーマ自体が狭い「想」しか表現できないものもあります。代表的なのが「顔」でしょう。3歳児はまだ充分描けないので、かえって味のある顔になりますが、形が取れるようになった子ども達には顔というテーマでは、各自の「想」が広がりません。小学校高学年や中学校の自画像の何と味のないこと!幼児も同じ傾向があります。動物の絵は意外と年少の方が「想」の広い作品を描く傾向があります。
クリエイティブ・ムーブメントでは、ひとつの投げかけに対して、指導者自身も20や30の表現は可能です。描画も同じです。20、30は無理でも、かなりの「想」を思いつき、実際に絵にできるか考えてみて下さい。指導者でも1,2しか考えつかないようなテーマなら決して子どもの「想」を充分に引き出せるものではありません。
ですから、的確な「想」で描けるテーマを考えるのではなく、まず、テーマは経験値の縦軸(主に材料用具)で考え、そのテーマの導入方法で「想」を考える方が遙かに指導者には容易なはずです。そうすることで的確なテーマ、導入の検証が可能になります。テーマと導入を完全に切り離して検証すると、どちらに問題があるかが見えてきます。
■「想」
この文章を読まれた方から「想」の定義がよく分からないとのご意見をいただきました。実は私も西光寺先生から「想とは」との定義の説明は受けていません。西光寺先生の教員達への実践後の評価として、「想が広すぎるから描けない」「想が狭すぎるので同じような絵になっている」と説明されているのを何度も聞きながら、導入時に子ども達がどのような「想」を持つかが鍵だということは理解できました。
「想」の最初で「イメージ」でも構わないと書きました。
イメージとは「心像」、すなわち心に思い浮かべるものです。
この心像には2種類あると、クリエイティブ・ムーブメントの実践で分かってきました。私の造語なので恐縮ですが、「追思心像」と「仮想心像」です。
追思心像:過去に経験したことを思い出しで心に浮
かび上がらせること。
仮想心像:実際には経験したことがないことを想像
すること。
この2種類のイメージはかなり異質であることは理解してもらえるでしょう。
過去に経験したことを心に浮かべる方が遙かに容易です。
また、仮想心像さえも、基盤は過去の経験です。その経験が絵本やテレビで見ただけのものであっても、映像としてどこかに残っています。
最近の子ども達に「トラック」を描いてもらうと、ワンボックス型のものを描きます。ボンネットはおろか、荷台すら描きません。それもそのはずで、子ども達が町で見かけるトラックは宅配便のものが圧倒的に多く、荷台に何かを乗せて運んでいるトラックを見かることも殆どないでしょう。
荷台にいろんなものを運ぶトラックは、今の子ども達には「仮想心像」になっているのです。
こんなテーマで描いたこともあります。
「お地蔵様はずっと同じところに立っているね?もしかしたらどこかへ行きたいと思っているかもしれないね。今日はお地蔵様が行きたい所へ行かせてあげよう」と言われて、すぐに絵にできる人は、かなり達者な人です。
お地蔵様を見に行き、それを新しい材料用具で描いてもいいじゃないですか。
また、年中や年長なら「傘地蔵」の話を聞いてから、描きたい場面を思い浮かべて描く方が遙かに描きやすいはずです。
すなわち基本的には追思心像であっても、次の一言で仮想心像にまで進んでしまい、そのため子ども達の経験(あるいは子ども達の生活感とも言えるでしょう)だけでは描けなくなってしまいます。
描き始めるのに躊躇していたり、隣の子のを真似る子がいるなら、決してその子達の問題としてではなく、「想」の問題だと考えて下さい。
クリエイティブ・ムーブメントでも、仮想心像に訴える遊びもありますが、幼稚園生活も最後の頃の遊びとして扱っています。また、発表会で演じる世界は仮想の世界ですが、だからこそ、何度も絵本を読んだりして心像に具体性が出るように指導しますし、同時に音楽という抽象的な力を借りて、子ども達が具体的に表現しやすいようにしているのです。
話を描画活動の「心像」に戻します。
結論から言えば、「イメージ:心像」からテーマ設定をするのは、とても難しいことなのです。導入時、たとえ子ども達が、ことばで、あれこれ発表してくれたとしても、それはあくまで言語表現であって、描画表現ではありません。しかも一部の子ども達からの発表で終わっていたなら(実際、一人一人の子の発言を待っていたら、それだけで活動時間は終わってしまいそうです)、導入そのものの問題点に逆戻りしてしまいます。
だから、尚更、イメージに訴えるようなテーマは避けるべきです。その代わりに、経験値の順次性を重視してテーマを考える方が、描画活動そのものの一貫性すら生まれます。
最近、ひとつの方法を見出しました。動画でイメージを刺激する方法です。詳しくは最後に描きます。その前に「想」に再び戻ります。
西光寺先生のご指導から導き出したのは、「想」とはクラス全体の子ども達が思い描く心の像、描き始める前に頭に浮かべられる具体的な絵、と言えば共通理解が得られるでしょうか?
最大のポイントは、描いた子ども達の絵を見ながら、画一的な作品だったら「想が狭い」、逆にそれぞれの子ども達の主張が曖昧だったら「想が広い」と結論付けておられたように思います。
すなわち、「想」は一人の子どものものではなく、クラス全体が共有しているもの、とも捉えられるでしょう。
動画は見る子ども一人一人で捉え方が違ってきます。確かに見せる動画によって、子ども達がイメージしやすいもの、しにくいもの、「想」が広がりやすいもの、広がりにくいものがあります。しかし、従来のような指導の言葉によるイメージ作りよりは遙かに一人一人の子ども達の個々のイメージは保証されます。
■段取り不要!
もうひとつ重要なのは、段取りで絵を描かせないことです。
○○式と呼ばれている描画指導法は、微に入り細に亘っての段取りに従って、指導者の思惑通りの絵を、文字通り描かせるもので、自己表現としての描画活動とはほど遠いです。
ところが、それほど極端ではくても、現場では「段取りを整える」のが指導だと勘違いしている節があります。○○式を批判している人でさえ、どう見ても子どもが手順を考えて描いたとは思えない絵を評価しています。
当園でも年少児に、たとえば絵の具でケーキを描いた翌日(絵の具が乾くのを待って)、「このケーキを誰に食べさせてあげようか」と投げかけ、パスで人物の顔を描かせていました。ところが、そのようにして描いた人物描写は私にはどうしても生き生きしているとは見えませんでした。ときには、ケーキを大胆に大きく描いた子が、余白に小さな顔を描いている作品を見ると、「この子は2日目、どんな思いで担任の話を聞いていたのだろう」と悲しくさえなります。1限目のケーキで子どもの「想」は完結しているはずです。それでも健気な子ども達は少ない余白に無理矢理描いたり、沢山顔を描けば指導者は喜んでくれるとでも思っているように、機械的に描き入れます。経験値という側面から見ると、その後に全く繋がりません。だって、機械的に描き入れられる子にとって描ききった達成感など持てるはずがないのですから。
そんな絵を「誰に食べさせてあげたいとの思いが表現されてる絵」と評価していては、○○式の絵と差違がないと言えます。
見通しがつくような助言、たとえば、「パスで線を描いたら、後から絵の具で色を塗るからね」などは必要ですが、子どもに先を読まさないで、「次はこの薄い絵の具で水を塗ってね」などは、全く不要な段取りで、出来上がりを重視する作品主義と言わざる得ません。
すなわち、不要な段取りとは、表現そのものの「想」を狭めるものなのです。
■最後に
1)絵は子どもからのメッセージです。
ですから、担任なり周囲の大人や子どもに伝えたいとの思いを常に持って活動できることが重要です。
そのために、技法や材料用具に囚われない「絵手紙」活動で、気楽に子ども達との対話をなさって下さい。その基盤がない限り、描画活動が単なる作品を作ることだけの目的になってしまいます。
2)絵手紙活動で、子ども達と担任との間に「伝えたい」「聞き取りたい」との姿勢が生まれたら、描画活動での「ねらい」に「思いを伝える」との表記は不要になります。
これは、すべての保育活動のねらいに「楽しむ」など書かなくて良いとの私の主張と同じです。何故なら「楽しめない保育活動」など、存在してはならないからです。描画では「思いを伝えない」活動などあってはならないのです。
3)たとえ前年度、うまく指導ができたテーマでも、そのまま翌年度も行なうのは禁物です。何故なら、保育者自身が出来上がった作品を見ても、初回よりも感動は絶対に薄れているはずだからです。感動が薄れていたのでは、子ども達からのメッセージを充分に受け止められるでしょうか?
(2019.3. 加筆、修正)
■子どもが主体的に活動【自ら考え、自ら行動できる子】
明治時代、日本に幼児教育が導入された頃から、「お遊戯」「お絵描き」と称されていたのは、それまでの寺子屋での「読み」「書き」「そろばん」と対比して興味深い相違点です。当時から漠然と、幼い子ども達の教育は従来の観点からのアプローチでは無理だとしたものでしょう。ただ、ピアジェによる認知発達の解明も未だ待たなければならない時代だったので、幼児の能力を過小評価していたとしても仕方ありません。
ところが、現在の幼児教育でも、この「お遊戯」「お絵描き」理論は脈々と受け継がれているのです。文科省の教育要領が6領域から5領域になり、「音楽リズム」「絵画制作」が「表現」と言い換えられても、現実には、指導者の指示通りに動かされる「ロボット」が「お遊戯」であるなら、「絵画製作」は指導者の「下請け作業」に終始しているのが現状です。まだまだ伝統的な「教えること」が教育だとの考えが根強く残っています。
一方、「子どもの主体性を尊重する」立場では、子ども達が好きなように動いたり、楽器を無秩序に鳴らしたり、自由に作ったり描くことを良しとします。
個々の活動だけではなく、活動そのものを子ども達自身が選ぶ、いわゆる「自由保育」と称される保育実践する園もあります。
午前中は「設定保育」、午後からは「自由保育」の二本立て保育は多くの園で見かけられます。
子どもの興味関心を重視する考え方はピアジェの認知発達理論にも書かれてあり、伝統的な教育から一歩進んだ教育のようにも見えます。
確かに「子どもの主体性を尊重する」視点は大変重要ですが、教育的効果という観点から私は疑問視します。
指導者1名が、複数の子ども達と関わる状況で、どれだけ一人一人の興味関心を的確に把握し、対応出来るかは大変難しく、結果、子ども達が勝手気儘に行動するだけに終わってしまう危険性すらあります。
長年私は、その両極端でない、中庸の道を模索してきました。
ところが、幼児教育のいろんな分野の実践を通じて、中庸ではなく、全く別の視点から幼児教育を捉えるべきだとの考えに達しました。何故なら、この両極端の考え方は互いに相容れないばかりか、お互いへの批判に対して、「そういう活動の時間もある」と攻撃の矛先をかわすために積極的に利用するばかりで、あたかも午前中は独裁国家の教育、午後は自由社会に放り出されるような矛盾にも指導者自身、気付こうとしないのです。
逆に自由保育を看板に掲げている園でも、行事の前になると一変したり、不必要までに子ども達を押さえ込む時間を一日の中に組み入れていることもあります。
子ども達の環境への適応性は、その生命力が証明するように、とても高いために、このような矛盾が保育の中に存在していても、見事に割り切って生活しています。
しかし、両親の価値観が極端に違う家庭環境では子どもの成長に歪みが生じるように、このような教育環境では、子ども達の精神性の成長に、効果の面だけではなく、登園を嫌がったり、充分に馴染めなかったりの悪影響さえ生まれることも屡々です。
故に、中庸ではなく、第三の方向性を意識し始めました。
「子どもの主体性を重視した保育活動(設定保育)」の追究がそれです。
教育とは「主義主張ではなく、実践による子ども達の成長という目標に向かっての多角的、かつ継続的な考察」との見解に達し、その目標を「自ら考え、自ら行動できる子の育成」に置きました。
そのために、まず、子ども達の反応の的確な把握、すなわち、「子どもから学ぶ」姿勢を私達が堅持することだと考えるようになりました。
■耐震性のない教育
最近マスコミで賞賛されているいくつかの教育法では、提唱者は異口同音に、「子どもにやる気が育つ」と言います。特に現場で大きな誤解があったために学力の低下を招いたとする「ゆとり教育」の見直しも、親に対して、これらの教育法は魅力的に響きます。
しかし、限られた内容の到達を目標とする教育では、単に積木を高く積み上げることだけに専念し、ピアジェの言う「構造化」、すなわち、強固な骨組みなしの経験にすぎず、小さな地震(将来の失敗)などでも簡単に崩れてします。
■好き勝手な行動は主体的ではない
また、子どもの主体性の重視は、「子どもが自らの意志で積極的に活動に参加」することであって、子どもが好き勝手に行動することとは違います。
すなわち、行動に価値があるのではなく、その内面の動き、心理に重きをおくべきなのです。
行動に価値を見出していては、先の「やらせ教育」と全く同じ理屈になります。
「子どもがしたがっているから」とか「子どもが楽しんでいるから」は子どもの心理に即した考え方を重視する考え方に意義を挟むつもりは全くありません。
しかし、これは必要条件であって、十分条件とは言えません。
幼児の主体性そのものと、一時的、かつ個人的な感情(気分)の違いを見極めななければ、教育そのものが誤った方向に進む危険性をはらみます。
少なくとも、「活動の選択」の原点を、このような未成熟な、あるいは個人的な感情に置くことに疑問を感じる方は多いでしょう。一時的、かつ個人的な感情を無視しても良いとは言いません。そのようなな感情は、別個に対応すれば良いのであって、それを保育活動選択の基準にすべきでないと考えるのです。
「子どもが、より意欲的にしたがり、より楽しめる」ためにどんな教育的活動を準備するかを、一人一人の子どもから的確に判断しながら、十分条件に広げる必要があります。
■内面の充実こそ教育の目標
専門教育に至るまでの教育で最も大切なのは、その時々の行動の成果ではなく、内面の充実であると考えます。
「構造化」そのものも、子ども本人の内面的な作用が重要であって、他者からの働きかけも、この内面的な作用に留まるべきで、行動に直接働きかけていては、教育ではなく、訓練になります。結果、内面的な作用に悪影響を及ぼします。無気力感、挫折感にもつながります。
常に子ども達が、意欲的に、充実感や達成感を持ち続けて活動できるかが、教育に携わる我々が心するべき点です。
ところが、言うは易く、行なうは難しで、普段から子どもの内面の働きを見ずに、行動だけを見ていては、何年教育の現場にいても、子ども達の内面の働きは見えないものです。「行事のための保育ではいけない」との示唆も、単に「行動」としての「行事」にだけに目を向けているから本質的な改善がなされないのです。
■表現について■
幼稚園教育要領の「表現」の総論として、「感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して,豊かな感性や表現する力を養い,創造性を豊かにする」とあります。
「感じたことや考えたこと」の主語は「子ども達」であることは言うに及びません。すなわち、「子ども達が自分で感じたことや考えたこと」であるべきで、指導者の意図通りに表現していては、それは「表現」ではなく、「模倣」であり、換言すれば、子ども達は「ロボット化」「下請け作業人」になってしまっています。
この観点から、表現活動を見るだけでも、表現とは言い難い活動が教育現場にはびこっています。
「豊かな感性を養う」との表記には疑問を呈します。
「感性」とは一体何なのでしょうか。滝沢武久氏は「感性とは感動する心」と解説されました。では、大人と子どもでは、一体どちらが「感動する心」が豊かでしょうか?この質問に対して、「子ども」と即答できるなら、常に子どもの内面、心理に寄り添った保育をされていると言えるでしょう。
「豊かな感性を養う」のではなく、「豊かな感性を潤滑油として活用できる」表現活動でなくてはなりません。
「自分なり」という表現も曖昧です。「指導者の意図ではなく」と読むのなら正しいでしょうが、子ども達は一体どれだけ多くの、また豊かな「自分なり」を獲得しているのでしょうか?一歩解釈を間違うと、ここでも「子どもの勝手」になりかねません。
■表現と伝達
表現と伝達には共通点と相違点があります。「言語」で説明しましょう。
知らない外国語では「お腹が空いた」と相手に伝えることができない場合、お腹を押さえたとしても、相手は「お腹が痛い」と解釈するかもしれません。お腹を押さえることを「身振り言語」と言いますが、これすら国による社会的通念があり、日本人の身振り言語が必ずしも外国で通じるとは限りません。
手の甲を上にして、指を動かすと、日本では「こっちにおいで」になりますが、「あっちに行け」と相手を追っ払う意味に取られる国もあります。「こっちにおいで」は手のひらを上にしなければなりません。
電話をかける仕草(身振り言語)も、現在では日本でも親指と小指以外を曲げて耳と口に近づけます。以前は受話器を握る仕草でした。
その国の言葉を知っていたら言葉によって相手に知らせられます。この場合の「知っている」とは、文法であり、語彙です。文法と語彙によって自分の意志を伝達するためには正確さが要求されます。
ところが、表現の場合、必ずしも正確さは必要ありません。先の指導要領の「自分なりに」と表記しているのも、このあたりでしょう。ただし、伝達の場合は「自分なりに」では用を足しません。
芸術を「独りよがりの道楽」と揶揄される場合があります。表現されたものに接した人達が何の感銘も受けない芸術的行為は確かにあります。時を経て受け継がれている芸術作品に高い評価が与えられるのは、多くの人達が感銘を受けるからです。
表現と伝達では「伝え合う」「共感する」などの共通点は確かにありますが、指導要領の「言語領域」の総論で「表現」という言葉が用いられているため、混乱が生じます。ここでは「表出」あるいは「伝達」とすべきでしょう。あるいはコミュニケーション能力です。「話す」「聞く」能力がコミュニケーションで重要であることは疑問の余地がありません。
ただし、「幼児の表現活動」は、芸術家にインスピレーションを与えることはあっても、芸術の域に達してはいません。よって、表現と伝達の境は殆どなく、教育のねらいにおいても、「コミュニケーション能力を育てる」としても、あながち間違いではありません。しかし、繰り返しますが、「伝達」では「正確さ」が要求され、「表現」では「正確さ」ではなく、相手に感動を与えるものでなくてはなりません。
■絵手紙
芸術の場合、第三者評価によって、自己表出意欲、創作意欲が必ずしも生まれるものではなく、芸術家の本能的なものだと言えます。
芸術家だけではなく、また、幼児のみならず、人間には自分の思いを伝えたい気持ちは誰にも備わっている本能的なものです。引きこもりの人にはこれがなく(あるいは希薄になり)、内部のエネルギーが表出しない状態だと言えるでしょう(その要因には言及しません)。
ただし、そこまで極端でなくても、引っ込み思案や消極的なため、充分に自分の思いを第三者に伝えられない幼児がいます。
原因はいろいろあるでしょうが、そのひとつは、自分を表出したときに、どう相手が受け止めるか、すなわち受け止め側の姿勢によるケースもあります。自己表現したときに、しっかりと受け入れられるかどうかは、「コミュニケーション能力」を育てる上での第一歩です。
描画においても同様で、「描きたい」「絵で伝えたい」との気持ちは、それを受け止める人がいなければなりません。自由画帳に勝手に絵を描いていては、受け手はいなく、描くのが好きな子はいくらでも描いても、描かない子には決して魅力的な活動ではありません。
西光寺亨先生に直接ご指導をいただいてすぐに「絵手紙」を提案して下さったのも、指導者に子ども達からのメッセージ(絵)を受け止める姿勢が生まれない限り、単なる技術指導で終わってしまうとの先生の指導者としての姿勢が根底にあったからでしょう。
ただし、毎週〜10日に1度の実践は現場に負担にならないかと躊躇したのも確かです。それでも、子どもにとっては描画と絵手紙の区別はないはずだし、しっかりと子ども達と担任との間に、信頼感で培われた気持ちのやりとりがなければ、如何なる保育活動も成り立たないとの信念から、2年後から絵手紙活動を導入しました。
それから、20数年、子ども達と担任との心のやりとりが確立されたなら、絵手紙の回数を減らし、その分、描画活動を入れる方が良いとの結論に達しました。また絵手紙のテーマを「今、幼稚園で楽しいこと」とか、「週末、家族と何をしたか」など日記風なテーマだけではなく、子ども達の描く力を事前に見るために、特定の対象物、例えば「ロケット」などに絞り込むのも描画活動のテーマを考える際に有効だと考えるようになり、現在に至っています。
■経験値
子どもがしたいことだけをさせておく教育や、逆に子どもの心理を無視して成果だけを追究する教育に対しての批判はすでに述べました。
また、教育で大切なのは、子ども達と指導者の心のやりとりが大切だとも書きました。しかし、これだけでは充分な教育効果は得られません。子どもと指導者との心のやりとりは「必要条件」であっても、「十分条件」ではありません。
子どもの気持ちを無視したやらせ教育では、たとえ見かけだけであっても、一定の成果が見えるため、保護者も指導者も満足する傾向があります。
また幼児の場合、「自然成長」も大きく、特別な教育を施さなくても、3歳児と5歳児との違いは、2年の年齢差以上のものがあります。そのため、放任主義的な教育でも、その教育効果として「子どもが成長した」と評価してしまうのです。
では「十分条件」の教育とはどんなものでしょうか?
一言で言えば、「さまざまな経験を通して子どもの認知構造を強化する」ことです。そのために大切なのは、
1)子どもができること、できないことを私達が知る。
2)子どもができる範囲で能力を発揮できる活動、
あるいは新たに挑戦できる活動を準備する。
3)それらの活動の順次性を重視して経験値を高め
る。
の3点です。
1)のできること、できないことは、子ども達個々の能力と共に、クラス全体の能力も知る必要があります。個人な対応で可能な範囲の差違であったとしても、できない子が多すぎたり、差違が大きすぎる場合は、活動そのものを抜本的に見直す必要があります。
個人対応は可能な限り少ない方がいいです。指導者が手を出すと、どうしても子どもは依存してしまいます。自分でやろうとする意欲付けに繋がりません。
そのためには他の子どもの力を借ります。子ども同士が教え合ったり、一緒に活動することで学び合えます。これはその活動の習得だけに留まらず、子ども達の社会性の育成にも大いに関与するので、積極的に取り入れましょう。
後でまた述べますが、描画でも、2〜3人での共同画なら年中の後半から可能で、そうすることで、材料用具などの学び合いも可能です。
2)では、ひとつの活動の中に、子ども自身が「これなら出来る」と思える要素と、「ちょっと難しそうだな」と思う要素を組み込むことで、子どもの取り組む姿勢が変わります。
3)は前回の経験を踏まえて、次の活動を組み入れることで、経験の順次性を重視しながら経験値そのものを高めます。
多くの幼稚園の保育内容を手直しする段階で、ふたつの傾向があることが分かりました。
1)前年度の活動をそのまま踏襲する。
2)前年度の活動に問題があると、そっくり入れ替
えてしまう。
圧倒的に多いのは(1)です。たとえ100%完成度の高い保育内容だったとしても、子ども達は毎年同じではないはずです。同じ活動をしても、例年ほど反応が良くなかったり、逆に簡単に目標を達成することもあるはずです。ましてや3年間の長丁場だと、微調整は必ず必要なはずです。そして、一部の微調整は他の分野の活動にも影響が出ても不思議ではありません。
このような園では(1)の洞察が不充分だと言わざる得ません。
(2)は何年か工夫を重ねて実践しても問題点が解決されない場合、英断として賞賛されるべきなのですが、十分に活動内容を検討しないまま翌年そっくり変えていてしまっては保育内容の充実につながりません。(1)よりはまだ積極的だと評価できるものの、子どもの立場からの洞察かどうかが重要です。
■描画活動の経験値
【色、形、材料用具から見て】
(1)色
年少児に何色かの絵の具を出すと、塗りつぶしてしまうから、形がしっかり描けるようになるまでは単色の絵の具で、いろんなテーマで描く方が良いと、以前は考えていました。
実際、人物や動物の顔の目鼻を描いても、指導者がちょっと目を離すと、その上から塗りつぶす子も多くいました。
今では笑い話ですが、ある程度形が描けたら、「はい、そこまで」と子どもから画用紙を取り上げるタイミングが年少児の描画指導では難しい、と真剣に話し合ったこともあります。
ところが、子どもは「何故塗りつぶしてしまうのか」と考えたとき、ひとつの結論に達しました。
子どもは決して塗りつぶしたいのではなく、「塗りたい」のだと。でも、線を描いた絵の具と同じ色の絵の具しかない。もしかしたら、同じ色でも、塗っている間に違う色になるかもしれない、と思っているかもしれないのです。
実際、当時は、塗りつぶしてしまう子のために、たとえば、その上から目鼻が描けるように別の色を準備するのが指導上の留意点だと考えていたし、そうして新しい色を出してやるとしっかりと描ける子が多かったです。
それだったら、最初から2色、3色の絵の具を用意してやったらどうでしょうか?
本来、単色で何かを描かせようとしていたのは、輪郭線なのです。すなわち、形を取らせることが「描画」の第一歩だとされていたようです。
幼児の絵の発達を見る際、なぐり書きから始まり、丸が書けるようになってから目などのパーツが書け、次に顔から手足が出る頭足人間を書くようになるとされています。
確かにこの順序には間違いはありませんが、観察視点が「線」のみに限定されているのも事実です。
しかし、子ども達は線を描くことから、形を整えるのでしょうか?
年少児に与える絵の具は1色だけと限定していた頃、本当にそれで良いかとの疑問から、10月頃に次のような実践を試みました。残念ながら当時の画像は削除してしまっています。
①テーマ:パンダ
▶白と黒の絵の具
▶白を使うので画用紙は緑
結果、それまで形にならなかった子もパンダらしい絵が描けるようになり、単色絵の具よりも多色絵の具の方が子ども達には描き易いのではと考え始めました。
それ以降、いろんなテーマで実践しました。でも、子ども達には申し訳ないほど、多くの失敗も犯しました。子どもはそれなりに楽しんで描いてはくれたものの、複数の色を与えるだけでは形にならないことも屡々でした。
でも、失敗から多くのことを学ばせてもらいました。
また、暫くは良い実践だと考えていたテーマの中にも、それ以降の実践と比較すると問題点も浮かび、今ではリスト外にしているものもあります。
※パンダも現在では実践から外しています。下の②③と同じ理由からです。
失敗例から紹介します。
②テーマ:おにぎり
▶白と黒の絵の具
▶白が引き立つ色の画用紙
③テーマ:オムライス
▶黄色と赤系の絵の具
▶黄色が引き立つ色の画用紙
この二つのテーマでは、重ね塗りが必要です。白でおにぎりを描いた後、海苔の黒を上から塗ります。オムライスも同様です。
◆問題点1:段階的に絵の具を出していたのでは単色
での活動と大差ない 。
◆問題点2:テーマは食べ物で親しみやすいが、色調
が地味。子どもにとって魅力的か?
おにぎりの地味さを補うために「弁当」というテーマにしたこともあります。黄色で玉子焼き、赤でプチトマトなど、色からの発想は子ども達にも容易にできました。しかし、個々の食べ物を羅列するだけで、確かに、いろんな色を使い分けるという経験はできるのですが、作品としてまとめるのは不可能でした
④テーマ:ぶどう
▶紫系の絵の具2種類
▶白い画用紙
ぶどうは丸で表現できるので描き易いと思って取り上げました。
◆問題点1:丸をバラバラに描くだけで、房としての
まとまりは出ない。
結果、何を描いているか分からない。
◆問題点2:紫系の濃淡の絵の具の使い分けに必然性
がない。
⑤テーマ:たこ
▶赤系と黒の絵の具
▶水をイメージして水色
これも、丸で身体、線で足が描けるのではと取り上げました。
◆問題点1:形が概念的、画一的
◆問題点2:赤と水色のコントラストが難しい。いろ
んな赤で描いたし、白い画用紙も使った
り、黒の代わりに白を合わせたこともあ
るが、色調に問題あり。
その他、山とある失敗作から共通点が見えてきました。
パンダの成功例で気付かなかったこと。
私達自身が、2色の絵の具を使いながらも、やはり形を描かせようとしていた点です。
■テーマはあくまで借り物
春、苺狩りに行ったから苺を描くのではありません。単色の絵の具を経験した後、2色の絵の具で子ども達が伸びやかに描ける対象物は何なのかを考えてテーマを決めます。すなわちテーマはあくまで「借り物」で良いのです。
※イチゴも①②③の理由で活動しなくなりました。
「経験画」「印象画」「想像画」「観察画」「物語画」などとジャンル別で子ども達の描画活動を分類する考えが以前からあることは承知しています。しかし、これらはあくまで指導者サイドからの分類であって、先に述べた表現方法(美術なら、色、形、材料)の経験値からの洞察が殆どなされていません。だから指導者も、次のテーマを考える手立てが殆どなくなってしまいます。前回は経験画だったから、今回は想像画とテーマを探しても、本当に子ども達が描きやすいテーマを考えるのは至難の業です。だから、毎年、その時期が来たら同じテーマでの描画活動で無難に終わってしまいます。
経験値の縦軸を基本に考えつつ、子ども達の生活に目をやれば、テーマは無尽蔵に見つかるはずです。何故なら、「絵が子ども達からのメッセージ」であると考えるなら、子ども達の興味対象からテーマを導くのは決して難しいものではないはずです。
実はこの考え方は他の表現活動から学びました。
ひとつはクリエイティブ・ムーブメントです。
クリエイティブ・ムーブメントとは、幼い子ども達にモダンバレエを教える際に、身体の使い方を知らせようとしても、大人の方法では全く理解できないために、その活動を通して、子ども達が自然に身体の使い方に気付けるように、アメリカで開発されたプログラムです。
幼稚園でモダンバレエなど教える必要はないと、私も当初は考えました。しかし、幼稚園でも身体表現活動の表記はささやかながらあります。小鳥になったり、大男になって動く活動を取り入れておられる園も決して少なくないはずです。
ところが、従来の身体表現をいくら経験していても、自己表現にはなかなか結びつかないのが現状でした。すなわち、経験値の縦軸がないまま、先の「経験画」などのような大人サイドの分類だけで身体表現を取り入れていたのです。
もうひとつはサウンド・プレイという楽器遊びでした。
幼児の音楽は、自己表現の場ではなく、「模倣」に留まっているのは、演奏という形態から、どうしても仕方のないことです。しかし本当に再現だけが音楽なのだろうか、音による自己表現は不可能なのだろうかと悩んでいた頃に出会ったのが、ドイツの作曲家、カール・オルフが提案していたサウンド・プレイという活動でした。
楽器を自由に鳴らす活動は、演奏だと子ども達に練習を強いるという見地から一時期日本でもはやったようですが、単なる騒音にすぎず、衰退しました。
サウンド・プレイでは音楽的な、とりわけ「演奏の三要素」という経験値の縦軸に基づいて活動が作られていて、自己表現も保証される活動です。
※演奏の三要素:強弱、速度、音色
※音楽(作曲)の三要素:
メロディー、リズム、ハーモニー
■導入不要!
このふたつの活動の共通の特徴は他にもあります。
導入が殆ど不要だということです。
クリエイティブ・ムーブメントでは最初に短い投げかけだけで始めます。例えば「足の裏を怪我したら普通に歩けないよね。足の裏を使わないで先生のところまで来られるかな?」で、いろいろな表現が出て来ます。
サウンド・プレイでは、遊び方のルール程度の投げかけです。低年齢向けの活動ではそれすら必要がありません。
描画活動だけではなく、幼児教育では導入が必ず必要だとの信仰のようなものが根強くあります。「導入は良かったけれど、活動そのものは…」などの評価を聞くと、保育が一体誰のためのものなのかさえも分からなくなってしまいます。
導入は、これから子ども達が円滑に活動できるようにさえすれば良いのです。ところが保育者は往々にして心配症で、伝える必要のないことも延々と話し、結果、子どもの意欲そのものを削いでしまうケースもよくあります。また指導者が意図する「表現」へと誘導してしまいます。
■誘導不要!
そうです。導入と言いながら、それが指導者の意図への誘導に陥るケースもよくあります。こうなれば、子ども達の自己表現はなくなり、単なる指導者の下請け作業になってしまいます。
誘導性が強い導入では子ども達の絵が画一的になります。これはクラス全体の絵を床に並べて見ると歴然とします。その中から何枚か異なる作品を選べたとしても、クラスの指導となると問題です。
導入が長くなると、その分、誘導性が強くなると考えるのが妥当でしょう。
■長い導入への批判
別の観点から、長い導入に対しての批判を述べましょう。これらの問題点は表現活動に留まらず、すべての保育活動に言えると考えます。
1)誰のための保育か?
保育活動は誰のためのものかは、言うに及ばず子ども達のためです。
なのに、限られた時間で指導者が一人芝居よろしく長々と導入していては、その時間が誰のためのものなのか分からなくなってしまいます。事実、指導者によれば、言葉巧みに子ども達の注意関心を引くのが指導力と勘違いする者もいます。別の場面でならまだしも、活動の導入でそれをしては、子ども達は単に受動的に話を聞くだけです。
いえ、長い導入をしていても、「子ども達と話し合った」とか「子どもの考えを引き出した」と釈明する人がいます。しかし、実体は一部の積極的な子ども達とのやりとりが中心であることは歪めないでしょう。指導者の言葉は子ども達にとって、とても影響力があると常に意識しないと、主体的に発言、行動する子はごく一部になってしまい、消極的な子ども達は常に置き去りにされてしまいます。
2)何のための導入か?
繰り返しますが「導入は良かったけれど…」の評価ほど、無意味なものはありません。何のために導入をすべきかを考えれば、導入以降の本活動で、一人一人の子ども達が、どれだけ主体的に取り組めるかのための「きっかけ」だけで導入の使命は充分に果たしているのです。過度な演出、「ウソ」が導入に蔓延っていても、それが保育だと思い込んでいる人は少なくありません。
3)年齢によっても導入は変わる。
サウンドプレイの導入でも、年齢によれば遊びのルールの投げかけすら必要がないと書きました。低年齢の子に言葉で説明しても理解できないケースもあるからです。だから言葉で説明しなくても活動できる内容でなくてはなりません。
4月の下旬、ある園の満三歳児が、大きな模造紙にスタンピングをする活動前に、子ども達を集めて担任の先生がタンポの使い方などを説明しようとしました。これも導入の一部です。年少のクラスなら、まあ理解できます。でも、子どもは10名ほどで、模造紙も2枚用意されていて、補助の先生もおられます。集めて説明しなくても、実際に活動しながら知らせることも充分可能です。そのようにアドバイスしました。
用具の使い方など、一度経験していたら、指導者が一方的に繰り返すのではなく、子ども達に尋ねるながら話を進めるのが原則だし、初めてのことでも「こうしたらどうなると思う?」と聞きながら進めると子ども達の理解度は高まります。
以上のポイントから、導入そのものを是非再検討して下さい。
■導入の難しさ
適切な導入は、確かに子ども達の豊かな表現を引き出します。クリエイティブ・ムーブメントが優れている点は、その難しい導入の言葉が、多すぎず、少なすぎず、とても適切なのです。
ところが先の「足の裏を怪我したら普通に歩けないよね。足の裏を使わないで先生のところまで来られるかな?」を間違って「先生のところまで歩いて来られるかな?」と言ってしまっては子どもの考えは固定されてしまいます。この活動では足の裏以外の身体のいろんな部位を使って「移動」する表現を引き出すのに「歩いて」と言ってしまったら、表現が殆ど固定されてしまいます。
描画と身体表現活動の最大の違いは、身体表現活動では、時間の経過と共に表現が深まる点です。描画でも確かに描いていくうちに表現が深まることも屡々あるものの、最初の一筆で全体が決まってしまうことも少なくありません。そのため、念入りな導入が必要だとの考えがあります。いえ、導入だけではなく、実際に経験しないと子ども達は絵が描けないとの極論すらあります。
たとえ、活動のプロセスは違っていても、先に述べた導入の2つのポイントを押さえるのは共通しています。
「想」という概念で、この難しさを解きほぐしましょう。
■的確な「想」を引き出す工夫
「想」という概念は西光寺亨先生に教えていただいたものです。一般的に使われる「イメージ」でも良いでしょうが、この言葉はあまりにも乱用されているために、かなり曖昧になっているので、私も「想」を使います。
「想」はもちろん子どもが抱くものです。それぞれの子ども達の「想」が狭すぎると、子ども達の作品が似たり寄ったりになってしまいます。先に述べた「誘導」も一例です。クラス全体の絵を並べて見ると歴然とします。
ところが、製作帳や、折り紙、あるいは指導者が何かの形を切り取って、それに子ども達が申し訳程度の作業で終わる活動では「想」すら見えてきません。実際、ある園で「蝶々の貼り方が個性的でしょ」と言われたときは唖然としました。
逆に「想」が広がりすぎると、なかなか描き出せない子がいたり、そのため隣の子の真似をしたり、たとえ描けても、何を描いているか分からないような作品になります。
「そんなこと、急に言われても分からない」と子どもは文句をつけません。必死に考えようとします。それを言葉でなら表現できても、絵で表現できるか考えて下さい。
テーマ自体が狭い「想」しか表現できないものもあります。代表的なのが「顔」でしょう。3歳児はまだ充分描けないので、かえって味のある顔になりますが、形が取れるようになった子ども達には顔というテーマでは、各自の「想」が広がりません。小学校高学年や中学校の自画像の何と味のないこと!幼児も同じ傾向があります。動物の絵は意外と年少の方が「想」の広い作品を描く傾向があります。
クリエイティブ・ムーブメントでは、ひとつの投げかけに対して、指導者自身も20や30の表現は可能です。描画も同じです。20、30は無理でも、かなりの「想」を思いつき、実際に絵にできるか考えてみて下さい。指導者でも1,2しか考えつかないようなテーマなら決して子どもの「想」を充分に引き出せるものではありません。
ですから、的確な「想」で描けるテーマを考えるのではなく、まず、テーマは経験値の縦軸(主に材料用具)で考え、そのテーマの導入方法で「想」を考える方が遙かに指導者には容易なはずです。そうすることで的確なテーマ、導入の検証が可能になります。テーマと導入を完全に切り離して検証すると、どちらに問題があるかが見えてきます。
■「想」
この文章を読まれた方から「想」の定義がよく分からないとのご意見をいただきました。実は私も西光寺先生から「想とは」との定義の説明は受けていません。西光寺先生の教員達への実践後の評価として、「想が広すぎるから描けない」「想が狭すぎるので同じような絵になっている」と説明されているのを何度も聞きながら、導入時に子ども達がどのような「想」を持つかが鍵だということは理解できました。
「想」の最初で「イメージ」でも構わないと書きました。
イメージとは「心像」、すなわち心に思い浮かべるものです。
この心像には2種類あると、クリエイティブ・ムーブメントの実践で分かってきました。私の造語なので恐縮ですが、「追思心像」と「仮想心像」です。
追思心像:過去に経験したことを思い出しで心に浮
かび上がらせること。
仮想心像:実際には経験したことがないことを想像
すること。
この2種類のイメージはかなり異質であることは理解してもらえるでしょう。
過去に経験したことを心に浮かべる方が遙かに容易です。
また、仮想心像さえも、基盤は過去の経験です。その経験が絵本やテレビで見ただけのものであっても、映像としてどこかに残っています。
最近の子ども達に「トラック」を描いてもらうと、ワンボックス型のものを描きます。ボンネットはおろか、荷台すら描きません。それもそのはずで、子ども達が町で見かけるトラックは宅配便のものが圧倒的に多く、荷台に何かを乗せて運んでいるトラックを見かることも殆どないでしょう。
荷台にいろんなものを運ぶトラックは、今の子ども達には「仮想心像」になっているのです。
こんなテーマで描いたこともあります。
「お地蔵様はずっと同じところに立っているね?もしかしたらどこかへ行きたいと思っているかもしれないね。今日はお地蔵様が行きたい所へ行かせてあげよう」と言われて、すぐに絵にできる人は、かなり達者な人です。
お地蔵様を見に行き、それを新しい材料用具で描いてもいいじゃないですか。
また、年中や年長なら「傘地蔵」の話を聞いてから、描きたい場面を思い浮かべて描く方が遙かに描きやすいはずです。
すなわち基本的には追思心像であっても、次の一言で仮想心像にまで進んでしまい、そのため子ども達の経験(あるいは子ども達の生活感とも言えるでしょう)だけでは描けなくなってしまいます。
描き始めるのに躊躇していたり、隣の子のを真似る子がいるなら、決してその子達の問題としてではなく、「想」の問題だと考えて下さい。
クリエイティブ・ムーブメントでも、仮想心像に訴える遊びもありますが、幼稚園生活も最後の頃の遊びとして扱っています。また、発表会で演じる世界は仮想の世界ですが、だからこそ、何度も絵本を読んだりして心像に具体性が出るように指導しますし、同時に音楽という抽象的な力を借りて、子ども達が具体的に表現しやすいようにしているのです。
話を描画活動の「心像」に戻します。
結論から言えば、「イメージ:心像」からテーマ設定をするのは、とても難しいことなのです。導入時、たとえ子ども達が、ことばで、あれこれ発表してくれたとしても、それはあくまで言語表現であって、描画表現ではありません。しかも一部の子ども達からの発表で終わっていたなら(実際、一人一人の子の発言を待っていたら、それだけで活動時間は終わってしまいそうです)、導入そのものの問題点に逆戻りしてしまいます。
だから、尚更、イメージに訴えるようなテーマは避けるべきです。その代わりに、経験値の順次性を重視してテーマを考える方が、描画活動そのものの一貫性すら生まれます。
最近、ひとつの方法を見出しました。動画でイメージを刺激する方法です。詳しくは最後に描きます。その前に「想」に再び戻ります。
西光寺先生のご指導から導き出したのは、「想」とはクラス全体の子ども達が思い描く心の像、描き始める前に頭に浮かべられる具体的な絵、と言えば共通理解が得られるでしょうか?
最大のポイントは、描いた子ども達の絵を見ながら、画一的な作品だったら「想が狭い」、逆にそれぞれの子ども達の主張が曖昧だったら「想が広い」と結論付けておられたように思います。
すなわち、「想」は一人の子どものものではなく、クラス全体が共有しているもの、とも捉えられるでしょう。
動画は見る子ども一人一人で捉え方が違ってきます。確かに見せる動画によって、子ども達がイメージしやすいもの、しにくいもの、「想」が広がりやすいもの、広がりにくいものがあります。しかし、従来のような指導の言葉によるイメージ作りよりは遙かに一人一人の子ども達の個々のイメージは保証されます。
■段取り不要!
もうひとつ重要なのは、段取りで絵を描かせないことです。
○○式と呼ばれている描画指導法は、微に入り細に亘っての段取りに従って、指導者の思惑通りの絵を、文字通り描かせるもので、自己表現としての描画活動とはほど遠いです。
ところが、それほど極端ではくても、現場では「段取りを整える」のが指導だと勘違いしている節があります。○○式を批判している人でさえ、どう見ても子どもが手順を考えて描いたとは思えない絵を評価しています。
当園でも年少児に、たとえば絵の具でケーキを描いた翌日(絵の具が乾くのを待って)、「このケーキを誰に食べさせてあげようか」と投げかけ、パスで人物の顔を描かせていました。ところが、そのようにして描いた人物描写は私にはどうしても生き生きしているとは見えませんでした。ときには、ケーキを大胆に大きく描いた子が、余白に小さな顔を描いている作品を見ると、「この子は2日目、どんな思いで担任の話を聞いていたのだろう」と悲しくさえなります。1限目のケーキで子どもの「想」は完結しているはずです。それでも健気な子ども達は少ない余白に無理矢理描いたり、沢山顔を描けば指導者は喜んでくれるとでも思っているように、機械的に描き入れます。経験値という側面から見ると、その後に全く繋がりません。だって、機械的に描き入れられる子にとって描ききった達成感など持てるはずがないのですから。
そんな絵を「誰に食べさせてあげたいとの思いが表現されてる絵」と評価していては、○○式の絵と差違がないと言えます。
見通しがつくような助言、たとえば、「パスで線を描いたら、後から絵の具で色を塗るからね」などは必要ですが、子どもに先を読まさないで、「次はこの薄い絵の具で水を塗ってね」などは、全く不要な段取りで、出来上がりを重視する作品主義と言わざる得ません。
すなわち、不要な段取りとは、表現そのものの「想」を狭めるものなのです。
■最後に
1)絵は子どもからのメッセージです。
ですから、担任なり周囲の大人や子どもに伝えたいとの思いを常に持って活動できることが重要です。
そのために、技法や材料用具に囚われない「絵手紙」活動で、気楽に子ども達との対話をなさって下さい。その基盤がない限り、描画活動が単なる作品を作ることだけの目的になってしまいます。
2)絵手紙活動で、子ども達と担任との間に「伝えたい」「聞き取りたい」との姿勢が生まれたら、描画活動での「ねらい」に「思いを伝える」との表記は不要になります。
これは、すべての保育活動のねらいに「楽しむ」など書かなくて良いとの私の主張と同じです。何故なら「楽しめない保育活動」など、存在してはならないからです。描画では「思いを伝えない」活動などあってはならないのです。
3)たとえ前年度、うまく指導ができたテーマでも、そのまま翌年度も行なうのは禁物です。何故なら、保育者自身が出来上がった作品を見ても、初回よりも感動は絶対に薄れているはずだからです。感動が薄れていたのでは、子ども達からのメッセージを充分に受け止められるでしょうか?
(2019.3. 加筆、修正)